去年の秋のことなんですが、人が来ました。
昨日、昔世話した人が疲れた顔で遠方から突然遊びに来て、うちで猫と遊んで書庫で「ここに住みたい」と騒いで社会学・哲学系統の本を漁って借りていって、棚の建築雑誌を見て「わたしも買ってます、絵を描くんで」と衝撃のオタク告白をして、パンケーキを食べて夜中にやっと帰って行きました。 pic.twitter.com/0JHnoMOwYx
— 泉 織江 (@orie2027) 2021年10月25日
このとき彼女が持ち歩いていた本が、小川洋子さんの『物語の役割』でした。
ちょうど待ち時間に読み終わったというので、せっかく(?)だから借りたんです。この本の中では、タイトル通りに物語というものの役割と、我々がなぜ物語を読んだり書いたりするのか、ということが語られていて、我々が日々実感していることが、わかりやすく整った言葉でまとめられていました。
その中の一説です。
「不器用で小さな自分の内側に物語を据えることで、自分の外側にある現実のありようを変化させた。これは、私が自分の作った物語によって、自分を救った最初の経験となりました。」
この、物語の役割の重要な一側面を、我々は他のところでも読んでいます。
『ポーの一族』の「グレンスミスの日記」」です。
『大奥』の篤姫の言葉です。
現実を自分の言葉で編み直し、物語をつくることによって、またそうした物語を読んで現実への解釈を変えることによって、どうにも変えられないつらい現実をどうにか生き延びていくのだ、ということです。
ここで我々は考えるわけです。薪さんが編む物語のことを。
これ↓です。
いまだに解釈迷子です。
※解釈迷子の歴史(読まんでいいです)
なんとか気がつかないようにしようとしても途中で気がついてしまうので、なぜなら薪さんは鈴木さんがもう死んでいると「知ってる」から。それをなんとか気がつかないようにしようとするのが(長く苦しい現実の多面的な場面ではどうかわからんけど、とりあえずこの悪夢の中での)薪さんの戦いであり、「気がつかない」ことによって鈴木さんのいない現実を「鈴木さんのいる夢」に変えようとするのが、薪さんが編もうとする物語なのかな、と。
薪さんは鈴木さんの死に責任があると思ってるでしょうから(思ってほしいわけではありませんが)、そんな単純な現実の読み替えを短絡的におこなっているだけではないでしょうけれど、「物語の役割」的に解釈するとそういうふうにも読めるかなあの番外編は、という解釈です。それでも結局いつも夢の中での戦いに薪さんは敗れてしまい、夢が悪夢になってしまうのが、救いがないところではあります。
ハリー・ポッターの魔法学校に、見たい現実を見せる鏡がありましたね。わたしはあの鏡の前に座ったら、亡くした最愛の猫を抱っこする自分を見て、ずっと鏡の前から動かず廃人になるな、と思いました。
それでもいいと思ったけど、だって『マトリックス』(オリジナル)みたいな苦しい現実なんか、それが現実だったらほしくないもんね。マトリックスの中にいてもそれが苦しくないわけじゃないからネオたちはそこを脱しようとするんでしょうけれど、サイファーが望んだように(たとえコンピュータにコントロールされていようとも)よりよい現実としての夢を見られるなら、あんな本物の現実よりそのほうがいい。
でも魔法の鏡は望みを写し出すだけで自分自身が猫を抱っこしてモフれるわけじゃないから、鏡だったらわたしはいずれ正気に戻ると思います。
『那由他』だったら無理、戻れない。那由他の力だったらモフれちゃうから。
薪さんの精神が鋼鉄のように強靭なのは実は、貝沼の脳を見てもただひとり狂わずにいるから、だけではなくて、失った鈴木さんに対して「死んだ」と言えることなんじゃないか、と思ったりするわけです。
こうして映画だの他の漫画だのを取り上げて薪さんへの解釈を広げるのも、我々の愛する薪さんがあんなに苦しい人生を生きていることに我々が耐え難いので、という、薪さんの物語という我々オタクにとっての現実をさらに「物語」として解釈する、という物語の役割であるわけですね。
つまりこういうこと:
鈴木は死んでいる
=薪さんにとっての現実
=薪さんが苦しんでいる
=我々にとっての苦しい現実
→妄想や二次創作に励む
=我々にとっての物語による昇華
いっぽうで二次に入り込まずに公式のみに頼るのが、我々自身のプライベートな現実を救ういわば一次的な(←ややこしい)「物語の役割」といえます。
さてさて、参考文献としてまた読んでしまったので、またメロディの8月号についてもうちょっと語ります。
薪さん、「鈴木カツヒロ」なんて名前を病院で聞いたりして、わかってても「え」って思わないのかな。わたしらなんか「薬のアオキ」とか薪ストーブとかでもいちいち反応しますけどね。
↓ 隣町の
オタクがふたりいたら「「薪」だって〜〜!!」って盛り上がるところです。
こういうふうに↓
(これはとらちゃんの読み切りが載っていたので買ったザ花の『兄友』)
事件のほうは、最初に読んだときもすぐ『私の中のあなた』を思い出しました。姉の白血病治療のドナーとして生まれた妹が、治療への協力を拒否して両親を相手に訴訟を起こすお話。映画はわたしのいいかげんな記憶によると、妹はそれでもひとりの人間としてちゃんと大事にされてたはずです。予告編によって操作された印象と違って、ちゃんと愛情溢れる家族やってんじゃん、という感想を持った記憶があるので。
事件の親の佐々木湊は、上の娘を溺愛したからといって、妹を「産むんじゃなかった」とか「役立たず」とか、その短絡性が仙堂外務大臣を思い出させますね。当初山城の「独善的」とか「許し難い」などの価値観の入った物言いをちょっとなと思ったのですが、というのはわたしは捜査員は捜査に価値観を入れるべきではないと思っているので、でもいっぽうで人間の子供とどうぶつに対する虐待犯には人権はなくていいとも思っているので、あれを虐待だと思えばまあ「許し難い」とはなる。
話を再度(三度?)主題に戻しますと、母親にとっては死んで解放され浄化されたいと願うことが、幹子にとってはありもしなかったやさしい母親の姿を「夢でしか」と思いうかべることが、「物語の果たす役割」なのかもしれません。
ついでなので小川さんの参考文献に戻ってもうひとつ引用します。
「『ファーブル昆虫記』では、自分は広大な全体の、ほんの小さな一部だという思い。ところが『トムは真夜中の庭で』では、自分は他の何ものでもない特別な一人だという思い。そういう一見矛盾しているようでありながら、どちらも人間にとって必要な、共存させるべき思いを、私は本から学びました。」
これも我々は知っています。セーガン博士の『コンタクト』です。アレシボ天文台が舞台の映画です。
ジョディ・フォスターが続けて語ります。
「宇宙のあの姿に、我々がいかに小さかを教わりました。同時に我々がいかに貴重であるかも。我々はより大きなものの一部であり、決して孤独ではありません。」
ジョディ・フォスター演じるエリーは、宇宙の美しい映像を異次元で覗き見て、それを描写しきる言葉を持てず、宇宙船には「詩人を乗せるべきだった」と言っています。それもまた物語、つまり言葉が果たす役割のひとつです。
a-ha も「birthright」で歌っています。
永遠に続くものなどなく、すべてはそれゆえに永遠で、時間がたっても癒されない傷があり、でもそれを癒すのは時間だけで、とても普通でありふれた人生が生きることのすべてだと、そんなふうに歌う歌です。
これを使ったおはなし:「Birthright」
あと薪さんは、鈴木カツヒロという名前に反応して夢を見てしまうのはともかく、鈴木さんに出会うより10年も前にもらった本を見つけても、やっぱり鈴木さんの夢を見るんですね。いまだに全世界が鈴木でできてんのねあの人……青木の出る幕、ないんじゃね??
薪不足をこじらせたまま3週間後にはお誕生日です。みなさんご一緒に妄想とか復習とか解釈とか、頑張りましょう。