こんばんは。
鈴木のあの姿について考えていて、自分的に納得・安心できる解釈が浮かんできたので聞いてください。昨日までのメロディの記事で「なに言ってんのコイツ」と思った方はスルーしてください。
わたしがいちばん引っかかったのは、最愛の親友である鈴木との夢での邂逅を、薪さんが「戦い」と称していたことなんです。
自分のことでいえば、亡くした最愛の猫、夢でしか逢えないから夢でいいから逢いたいよ。今日猫関係の人が思いがけずうちのその猫のことを覚えてくれてて名前があがって、字面を見ただけで外で泣いちゃったもん。ハリー・ポッターの望みを見せる鏡(←よく知らないのにすみません)があったら、毎日その前に座り込んで餓死するタイプです。わたしがいま餓死しないのはひとえに、その後やってきた他の猫たちへの責任があるからです。
でも鈴木の夢を見る薪さんは、その夢を「戦い」だと思ってるんですよね。鈴木が出てきて警大時代の薪さんは一瞬嬉しそうな顔をしてたけど、そのときですら「この鈴木はもう死んでいると知って」て、喜ぶより先に「でも僕が気がつかなければ大丈夫」と神経張ってる。
夢でいいから逢いたかった、逢えて嬉しい、って思わないのかな、鈴木との夢での交流は「戦い」なのか、って思って。
6巻の死霊(すみません)的鈴木にも同じ理由でずっと引っかかってたので、そこで今回のメロディもしんどかったんですが。
でも気づいたんです。「戦い」って、鈴木と逢うことじゃなくて、闇落ちした(と言っていいのか)鈴木と戦うってことじゃなくて、単純に(と言っては語弊があるけど)鈴木の姿が崩れていくのを止めることなんじゃないかって。愛する親友が目の前で変わっていくのを抱き止めるのは、それを止めようと必死だからで、それが止められないのが悪夢であり戦いなんじゃないかって。
鈴木を抱いて泣く顔の、あの泣き方、なんていうか号泣でもないし叫んでるわけでもないんだけど、目の前のどうしようも変えられない事実に子供みたいに泣いてる感じがして。薪さんほんとにかわいそうすぎる。
「いい、どんな悪夢でももう夢でしか逢えないから」っていうのは、あんな姿の鈴木でいいってことじゃなくて、「悪夢との」戦いに敗れて鈴木の姿が変わってしまっても、それでもいい、夢でしか逢えないから、ってことなんじゃないかと思う。止められるように「気がつかなければ」ってすっごく頑張って、それを阻止しようと頑張って、でもできなくて、それは悲しくてつらいことだけどそんな形でしか会えないならそれでもいい、ってことなんじゃないかと。だからどんな姿でも抱き止めるんだと思う。
あんな悪夢を見る理由は、やっぱり鈴木を殺したのが自分だという思いから来るのかもしれないけど、これももしかしたらもう誰が殺したかとかどんな理由で死んだかとかじゃなくて、ただ鈴木のいない現実がつらすぎて、悲しみが深すぎてその悲しみが悪夢になるだけかもしれない。逢いたいのに逢っても夢だとわかってる、夢の中でも「もう死んでいると知ってる」から、夢で逢うのさえ怖いのかもしれない。
通してほぼ抑えた表情がずっとずっとものすごく悲しそうでさびしそうでつらそうに見えた、それが薪さんの生きる現実なんだと思いました。
そういうふうに(わたし個人にとって)都合よく解釈すると、薪さんの現実がつらいのは変わらないのに、薪さんと鈴木の美しい関係性はまるごと保持されるから、鈴木が亡くなった日にほんとに「あっち側」にひきずり込まれたかどうかも関係なくなるから、かなりラクになりました。
青木はやっぱり呼べば来ると思う。薪さんが「いきます」と言われて一瞬考え込んだのは、青木のまっすぐな魂なら鈴木が崩れるのを防げるかも、と思ったからじゃないかと思う。
薪さんにとっての青木って、ずっとそんな存在だったんじゃないかと思います。だから青木は善良でいいんだよ、薪さんが守ってくれるから、青木が善良であることが結局薪さんを守るから。
とまあこんなふうに考えて、また普通のにんげんのふりをして生活できるくらいに立ち直りました。
あとはもうすぐ鈴木さんの誕生日だから、好ましい鈴薪を書くよ。なんとか書けそうです。