こんばんは。
先週末、祖母の十三回忌だったので、2年ぶりに実家に行ってきました。そして20年くらいしてなかった墓参りもしてきました。雪降っててひたすら寒かったです。
実家はカレンダーが青木家状態でした。
同居人がいるってこういうことだったなあ、としみじみ。
薪さん自身は全部脳内に入ってるだろうから手帳もスマホのカレンダーも使わなさそうですが(リマインダーくらい入れる??)、青木んちのカレンダーには公式でも「薪さん誕生日」とか絶対書いてあるよね。書いてあるとしたらおそらく他の人間の室長さんたちのも同様でしょうけれど……。
法要といえば薪さんはよく葬式に行ってますが、あんなにしょっちゅう葬式やってる漫画もそうそうないんじゃないかと思います。大統領を除いても、薪さんが出席した葬式だけでも、
・鈴木
・たぶん天地のも
・青木のお姉さん夫婦
・桜木さんのお母さん
・冴子先生
喪服で新幹線に飛び乗ってるし。
でも鈴木さん以外は多かれ少なかれ捜査がらみなので、気持ちの面ではそうでないにしても、葬儀に出るのは仕事の一環ともいえます。
鈴木さんに関しては、他の法要も参加はさせてもらえなかっただろうけど、仕事してても心穏やかではいられなかったでしょう。わたしは自分が儀式めいたものにほぼまったく興味がなくかつ完璧なまでの無信心者なので、あまり想像つかないんですが。でも青木のお姉さん夫婦のお墓にもよく行ってたらしいし、手を合わせるお姿は丁寧だし、薪さんは意外に?そういうのきっちりしてるかもしれない。
鈴木さんの法要等とその頃の出来事の重なりは次のようになります。
天地に冷たくあたっていたのが時期的なものであるとはいえるかもしれない(もっともあの頃の薪さんは誰にでもおっかなかったけど)。
帰国後はお墓にあいさつには行ったでしょうね。とか考えたらこの妄想、もうしてた。
→ 秘密の墓参り
「第九」編は2060年1月の青木の入室から2062年の薪さんの渡米まで2年ちょい、12巻のパリが2064年10月でそこまであっというまにプラス2年でしたが、時間のスピードが違いすぎて脳がバグります。公式は現在そこからさらに5年。あと2年たてば鈴木さんの13回忌ですが、あんまり関係なさそう。
本編6巻の郁子のところで新しく部下になった岡部さんが、薪さんをして
「「この人」が一番親しい友人を亡くして まだひと月も経っていない事 そしてその人を殺したのは他ならぬ「この人」だという事をまるで忘れていた」
って思うじゃないですか。
この頃の薪さんはそれはそれは疲れ切った顔をして、「事実上崩壊」した「第九」を「シャツだけでど寝巻」で「ろくに仮眠すらとれない」状態でたったひとりで支えてる状態です。鈴木さんが亡くなったのは事件だから、葬儀をして終わりってわけにはいかなかったと思うんですよね。精神状態の推測のために(もしかしたら雪子さんと一緒に住んでた??)自宅も捜査の手が入ったかもしれないし、そうでないにしても後始末が相当大変だったはず。
つまり「まだひと月も経っていない」郁子事件の頃には、やっと周りが落ち着いた程度で、それだからこそ新しく体制を整えるために岡部さんたちが送り込まれてきたんだろうと思うんです。
そんな状態で仕事してる薪さんもすごいんだけど、幻覚とか亡霊とかに「おまえはもう死んだ」って言えるのがすごいと思って。
わたしは最愛の猫を亡くしたときに何年も立ち直れなかったし、なんなら長生きしないようにしようと思ったし、夢でもなんでも会いたくて亡くなったことを認めたくなかった。悲しみへの対処の段階そのまんまです。「否定」です。
薪さんは鈴木さんの亡霊と一緒に貝沼の亡霊も見てるから、愛する者の喪失だけでなく、それをもたらすことになった狂気にも囚われてる、ということなんでしょう。だからあのメロディの「夢」なのかもしれない。
なお、死の悲しみに対処する「段階」というのはアメリカのドラマではしょっちゅう出てくるんですが、みんな普通に知ってるのね。脚本だから知ってることになってるのかもしれないけど、少なくともドラマに説明なしに出せる程度には社会的に認知されているということです。
内容は出典によってだいぶ違うし、5段階とか10段階とか12段階とかのもあるんですが、というのはその悲しみが何によってもたらされるか、「死の受容」の「死」が愛する者の死なのか自分の死なのか、といろいろあるからのようです。
わたしがいちばんピンと来るのは7段階かな。おおむね次のようなものです。
1 ショック
2 否定
3 怒り
4 代替案(代わりに死ぬのに、など)
5 抑鬱
6 模索
7 受容
感情が爆発したり、眠れない・食事がとれない・幻覚を見るなどの身体的症状が出るのは主に前半部分において、です。薪さんは症状としてはそういうのが出てるんだけど、しかもそれ以上に火傷したり目隠ししたり(←それはもっとあとの話)めちゃくちゃやってるんだけど、否定や感情爆発などの情緒面の各段階が出てないんですよね。
で、この「感情表現が希薄」(必ずしも爆発しないわけではない)というのは、清水先生の主人公側のキャラの描き方の、ある種の特徴だと思います。ゆーても『月の子』しか知らないんですけど、ショナが異星で出会った恋人を語るくだりで、あまりにあっさりその過去を捨ててあまりにあっさり「もういない」とかいうのが、学生だったわたしにはかなり衝撃でした。しかも人魚たち、卵を産んで「死ぬ」ことにもたいした感慨も示さないし。青木も「薪さんと心中ならもういっかー」とかあっさり迷惑な覚悟してるし。
抑えた感情表現は、舞台装置としては見る側の感情移入の余地を残しそれを許すので、個人的にはわかりやすい感情の爆発よりも受け入れやすいです。わたしとしてはそれでなおさら、黙って苦しそうな目をしてる薪さんが、泣き叫んでるときよりもなおいっそうおいたわしい。
とにかくあれでフツーに仕事してる薪さん、とんでもないですね。「悪戯」で「仕事に集中できず」とか言って女優泣き(by なみたろうさん)してたのは、むしろ情緒的には進歩なのでは。
猫と暮らすか、せめてワンコのぬいぐるみでもあればなぐさめられたのにねえ。
こちらはわたしの最近の癒し、アフラックのあひるです。
あの「あひるんるん、あひるんるん、僕たーちはー、一生一緒さ、あひるんるんるんるん♪」という「あひるのワルツ」を聴いたときには、あひると一生一緒にいられるかバカめ、と思ったものですが。
でも正直、その能天気さがうらやましかった。
というややこしい思い出、っていうか思い入れ?があるため、アフラックのあひるはわたしにとってちょっとだけ特別で、ただでさえ鳥が好きなのにますますあひるが愛おしくなるのでした。