雑種のひみつの『秘密』

清水玲子先生の『秘密』について、思いの丈を吐露します。

「秘密の果実」

 

鈴木さん 誕生日おめでとうございます!

鈴薪については考えれば考えるほど混乱してくるので(主に鈴木の人生最期の数日間について)このさい考えないようにしているのですが、考えるときに出てくるのはひたすら薪さんをおまもりする王子としての姿しかないですねやっぱり。

 

桃の話を書きました。発端はこちらです。

今年はいちごとさくらんぼとすいか、まもなくマンゴーも届くことになっており、貢物の果物が豊作でありがたいかぎりです。

 

桃はわたしも大好きなんですが、好きすぎて先代のワンコの名前がモモだったくらいです。まあモモって名前は一時期犬でも猫でも首位独走だった、超よくある名前ですけど。

10年以上前、道端で軽トラックで売ってる桃をつい買って、それはさほどうまいものでもなかったのですが、それを職場で語ったことがありました。桃ってうまいですよねつい買っちゃって、みたいなことを言ったら、同僚のひとりがしみじみと、

「桃ってほんとうまいよね。あれなんなんだろうな、ほんとうまい。あんなうまいもの他にない」

とか桃を絶賛し始め、なんかすごく納得したことがあったのです。

そのときを思い出しながら、桃を前にしみじみうっとりしている薪さんを書きました。

 

ゆるく書いたのでブログだけにしとこうと思いましたが、書けそう書いたと騒いだのでついったにもあげました。

 

おりたたみのあと、ベタ打ちです。

昨日に引き続き教養部1年、まだ荻窪の屋敷にいる鈴薪。

 

今回は薪さんが自力で買った桃ですが、果物シリーズはこちら:

舞が送ってくれたすいか SS「真夏の果実」

すいかを食べたあと   SS「風立ちぬ」

青木が買ったネクタリン SS「晩夏の果実」

 

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秘密の果実

 

 

 土曜日のまだ明るい夕方、梅雨の小休止した日に、鈴木は薪の家で授業のレポートに取り組んでいた。高めのちゃぶ台の上にノートパソコンを置いて、参考書は畳の上いちめんに広がっている。どんなに広い机でもいずれスペースが足りなくなるので、結局は床に落ち着く。

 そのとき来客を告げるインターフォンが鳴った。

 「誰か来たぞ」

 ちょうどお茶を取りに立っていた薪に声で伝えると、たぶん宅配便だろう、印鑑は玄関の鍵入れのトレーにあるから受け取ってくれ、と言われた。胡座を崩し、背筋を伸ばすにもちょうどいい、と立ち上がる。行ってみれば無愛想なクロネコに渡されたのは大きめの平たい桃の箱で、どうやら中身も外の絵と同じもののようだった。

 「果物が来た」

 「水蜜桃か」

 台所に持ち込むと、薪が嬉しそうにぱたぱたと寄ってきた。「待ってたんだ」

 「おまえ、桃、好きなの」

 「桃が嫌いな奴なんているか」

 とはいえ少年のような白い顔がぱあっと上気してほんのりと染まり、伏せた睫毛はうるむのかと見紛うほどにきらきらしている。好き、程度の話ではない。

 「昔から知ってる農園から取り寄せてるんだ。1本の枝にひとつの桃しか残さないんだぞ」

 「あー、メロンとかもそうやって甘くするらしいな」

 「贅沢の極みだよな。果物なんてほぼ嗜好品なのに、人手を使って、手間暇かけて。だからちゃんと値段の説明のできる、あまり安くないところから買う」

 その理屈はおまえらしい、と思ったものの、そもそも桃にそこまでこだわる理由がまだよくわからない。

 ダイニングテーブルに箱を置き、硬いポリプロピレンのバンドをはさみで切る。ビニールテープに慎重にカッターを入れて開梱すれば、黄緑色から濃いボルドーまで熟す過程を順番に並べたような色合いの丸みが、きっちり並んでこちらに向けられていた。薪が深呼吸して、鼻から香りを吸い込んだのがわかった。

 普段はけっこう大胆で乱暴者のくせに、ずいぶん丁寧に扱うじゃんか、とその態度に驚く。

 「桃、好きなの」

 再度尋ねれば言外の響きを感じ取ったらしく、薪はわずかな青さを残しながら全体がいちばん濃く染まったひとつを取り出し、両手のひらで包むように鼻先に捧げた。

 「この色を見ろ。色相環の移り変わりみたいだろ。肌触りはすべすべなのにふわふわで、しっとりしてて、香りは瑞々しく繊細でありながら一度鼻に届いたら束縛されるほど力強くて、ずっしりとした重さとそっと触れないとすぐ潰れるほどの柔らかさが、まるでそれが普通みたいに同居してる。おまけに食えるんだぞ。まさしく禁断の果実だよ」

 「それ、ほんとに桃の話してんのか」

 薪の高揚ぶりになかば呆れて忠告めいた物言いをすれば、それすら聞こえなかったようすの友人はうっとりとした視線で、指先で掲げた禁じられた秘密に唇を寄せた。

 「これは僕の、いわば掌中の珠なんだけど。ばれたからには鈴木にもわけてやる」

 「え」

 「誕生日に届いたからな、しかたない」

 「それはどうも」

 「甘熟してるやつから冷やして、湯上がりに食べよう。残りは冷やしすぎないように野菜室に」

 「8個も入ってるぞ」

 「こんなの、明日の昼には食べ終わってる」

 小鳥のように少食の薪が、と驚いていると、ほとんどカラの冷蔵室にいそいそとひとつずつ並べていく。「桃源郷って、ほんとにあったんだろうな」

 「そ、そこまで言う?」

 「西王母の桃園で蟠桃会に出席したかった」

 「おまえが不老不死を願うとはね」

 「食べるつもりはない。普通の桃でこんな香りがするなら、仙桃はどれだけ麻薬っぽいのか嗅いでみたいだけ」

 夢見る口調が、石猿の荒らした伝説の桃園を語る。こいつマジで危ない、と現実に引き戻すために背後から手を伸ばすと、下段の野菜室を閉じてすっと背を伸ばした後頭部が、その勢いで鈴木の顎にぶつかった。

 「っ、った」

 「なにやってるんだ」

 「俺のセリフだ。もう少し自分の頭を大事に扱え」

 「そっちがぶつかってきたんだろ。香りが甘すぎるからって、桃の前で理性を失うな」

 「はあああ?」

 「宿題を終わらせるぞ」

 盆に冷えた抹茶のピッチャーと、氷入りの細長いグラスをふたつ載せた。荷物が届いたときに準備していたもので、ガラスはいずれも汗をかいていた。すたすたと和室に去っていく自分を襲った丸い頭を見送って、鈴木は口の中で舌を回し、血が出ていないことを確かめた。

 林檎、無花果、柘榴と、西洋で禁じられた果物は数あれど、東洋の桃はもっと魔除け的で、長寿などのよい意味合いが大きい。本当に禁断の果実なら、食べちゃ駄目だってこと、わかってないんじゃないか、と思う。

 風がさあっと吹いて、開け放たれた廊下と和室を抜け、家の奥まで庭から緑の匂いを運んできた。荻窪のこの屋敷は遠からず処分するのだろうが、純和風に整えられて外界から壁で閉ざされた空間は、こここそがまさに秘境だ。時間の止まっていた空間、ふたたび動き出した空間、そこに棲まう美しい魔物と、招き入れられた同級生。俺こそが桃源郷に迷い込んだ輩だよな、と日中のまぶしい太陽が去りつつある屋内の空気を味わう。

 クロネコ、愛想悪かったな、魔性の家主が出てくることを期待してたんだろうな。まあいい、多少ラリって見えたけど、どこで聞いたのか俺の誕生日を知ってたし、覚えてたし、プレゼントもくれるっていうからな、と鈴木はまずはレポートを片付けることにした。

 

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