こんばんは。
朝イチから門限までの「時間に縛られる」仕事が片付いて、絶好調の管理人です。 単に社会性がないだけともいう 今後しばらくはどんだけ忙しくても、超夜型のほぼ好き勝手な生活に戻れる!
まずはミルク飲み岡部さん(猫)をご堪能ください。
20190331
— 泉 織江 (@orie2027) 2019年11月30日
猫バイトにミルクをもらう岡部猫、生後一週間。 pic.twitter.com/jgv37aSkjU
※ 訂正:今井猫でした。
さて少し前のことになりますが秋口の出張の際に、出先から駅までの道すがら、途中の公園でほぼ抱き合うカップルを見ました。ベンチに横並びに座ってお互いのからだに手で触れ、ハナが触れ合わんばかりの至近距離から見つめ合う、レズビアンのカップルを。どう見ても大学生くらいの若いふたりでした。
これを書いてて思い出したのですが、10年以上前になります。近所を犬と一緒に散歩していて、高校生のレズビアンらしき??カップル?に遭遇したこともありました。
ふたりは夕方の薄暗くなりかけた公道で、というか裏道ではあったのですが、いちゃついていたというよりは何かを試していたのではないかと思います。ふたりともセーラー服の制服、ひとりが下はスッポンポンでベンチの上に横たわり、もうひとりがその横たわった女子の脚を広げて覗き込み、確か触ってたと思う。
わたしがそれがわかるほど近く、具体的には距離2メートルに接近するまであちらが気づかなかったのはなぜなのか、は謎です。気づいたときにはふたりだけでなくわたしも、そして先代のワンコも、相当驚きましたけれど。
まあそれは余談です。
関連して少し前に読んだ本を思い出しました。
https://www.amazon.co.jp/レズビアン・アイデンティティーズ-堀江-有里/dp/4903127222
毎年職場で経費で、50冊程度の本を買ってもらいます。そんだけ買ってると当然積ん読も年々たまっていきますし、そもそも何の目的でそれを注文したのか思い出せない、ということもままある。
今回の『レズビアン・アイデンティティーズ』はまさしくそんな本で、日経の書評を読んだとかいう理由だったに違いない気はするのですが、まったく覚えていない。
しかしすごい本でした。装丁が研究書っぽくないのでちょっとナメてた。内容は社会哲学です。
全体を通してわたしが受け取ったメッセージは、
・レズビアンはセクマイとして女性として、二重の意味で差別・区別されてきた
・ゆえにいわゆる男のゲイとレズビアンは全然違う
というものです。
かなり厚い本でもあり、主張を説明しようとしても誤解のないようにかつコンパクトにまとめるのは難しいので、大なり小なり衝撃を受けた部分を抜粋してご紹介しておきます。
※ 青薪とは例によって関係ありません。
p. 91
「ゲイ遺伝子」なるものを追究する振舞自体が、同性愛の原因を突き止めることを目的としており、追究の前提にすでに、性的指向が異性にむかうありかたこそが「自然」であるというイデオロギー(異性愛主義)が含まれている
※ ゲイ遺伝子追究、をしてる人が実際にいるらしい、ということに、管理人おどろきました。川原泉の「そもそも子孫を残せない」のにそんな遺伝子なんかあるわけないだろ、という言説を伝えてやりたい。
p. 103
レズビアンが、同性である女に性的指向が向く存在として認識されるとき、女であるにもかかわらず、「一般的に男性が抱く(とされている)欲望」をもつ存在として解釈されてしまう。
※ これについては以前ご紹介した『腐女子の心理学』にも、BLによって(だけじゃなくて同人誌的には異性愛にもあると思うのですが)女性が堂々とポルノを楽しむことが可能になった、という主旨の記述があり、こことは違う文脈ではありましたが、通じるものを感じました。
p. 112
「「女」が「母」であり、「妻」であり、「ある男のもの」であることが自明とされているこの社会の規範」が存在するがゆえに、女同士の親密な関係性は、「規範に対する完全な裏切り行為」として否定されてしまう(中略)
したがってレズビアンは、存在しないものとみなされてきた
※ この部分は、「資本主義の発達と女性の社会進出によって女が外で働いて自力で生きていくことができるようになった」という前時代の(そしてもしかしたらいまでも連綿と続く)社会の変化を前提としており、ものすごく端折ると「自分で働いて食い扶持を得ることでレズビアンがレズビアンでいられるようになった」ということになります。ここが男のゲイと一番違う、と筆者が(そして一部のレズビアン当事者も)感じているところのようです。
p. 120ー121
<カミングアウト>には、(中略)表明することによって、同性愛者についてのステレオタイプのイメージが自分自身に投影される危険性が待ちうけている(中略)
自身のあり方を語ることにおいて、誰かによってイメージを語られるという受動的な位置から、語りの主導権を回復するという手段を通して行使される、抵抗の行為として位置づけられる
p. 128
異性愛者は、異性と性行為を行わずとも「異性愛者」として無徴な存在としていられるのに対し、同性愛者は、異性愛者と区別するために、「同性と性行為を行う者」とみなされる。
※ これら2つの引用部分は、単純に社会でひろく認知されるか許容されるか、という視点で、そしてそれを前提として本人たち自身の問題として、語られがちなセクシャル・マイノリティのあり方について、そんなに単純ではないとはわかっていたつもりでも、新しい視点を広げてくれた言説でした。
※ p. 128のほうに関連してもう少し。先日初めて「フィンドム」なるものを知ったのですが。
きっかけは、以前講演を聞いたことのあるゲイの研究者が、ついったで言及していたことです。装着した指の写真もあげてました。「主に、膣への指の挿入が想定されているのですが、アナルにも同様に使えるということで。」とおっしゃってましたが、正直なところ、発言するゲイとしてこれに言及する責任を多少なりとも感じてるんだろうなとか、これをゲイじゃない社会人が(顔出し本名で)書いてたら困惑するとか思ってしまって、フラットな気持ちで読むのは難しかったです。
分厚いし文体も固いし物語ではないので簡単ではないですが、でも丁寧に読めばわかりやすく、示唆に富んだ本です。
アメリカのドラマ『シカゴ・ファイア』で、レズビアンの救急隊員が自分のことを ゲイと言っていて、男女区別しないのはアメリカさすが、と見た当時思ったのですが、実は男女ひっくるめてゲイと呼ぶのはむしろ(現に違うということが一方の当事者であるレズビアン側から語られ出したので)少し古いらしいです。この本によると。
マイノリティの心理や現状を思い込みのない目で理解するのって、わかってはいるけど難しい。当事者側から訴える声がないとたぶんほぼ無理です。
唐突にどうぶつに戻る。
みっちり詰まってる猫ず。真ん中が今井さんです。
彼らの度重なる襲撃に耐えかねて、ついにiPadのスマートキーボードがお亡くなりになりました。涙 また総務に「もうお金ありませんよ」と言われながら買ってもらいます(恵まれててすみません)。
iPad Pro本体も挙動が怪しいのですが、なんとか来年度まで死なないでくれ。