雑種のひみつの『秘密』

清水玲子先生の『秘密』について、思いの丈を吐露します。

10年たちました

 

こんにちは。東日本大震災から10年たちました。第二管区の住人です。

わたしはにんげんよりもどうぶつに対するシンパシーのほうが強い人でなしなので、また記念日とかほんとに興味ないこともあり、正直毎年この日のことは忘れています。なにしろ猫ずの誕生日や命日も忘れるくらいです。

今年思い出したのは、単に去年までよりついったを見ているせいです。

 

『秘密』の感想をあちこちで拝読すると、みなさん神原先生や光(や澤村や滝沢や住田教授)にやさしくて、社会的にちゃんとした人の感情ってこういうふうに動くんだろうな、としみじみ感動します。恥ずかしいしご迷惑でしょうからお名前は出しませんが、感想や他の方々とのやりとりを拝見していて、こんなふうに人の心に寄り添って共感できる人間になりたかった、と思う方が何人かいます。

わたし自身は神原先生の過去が彼女の犯罪というより行動の免罪符になるとはまったく思わなかったし、しかもそれを否定するという意味ですらなく、なにも感じなかった、という意味でそうでした。むしろ光のほうが、神父を殺したことをなぜあんなに責められるのか理解できなかった。あれはただの正当防衛なのに。つばき園の他の子供たちのほうがよほどひどい。好きじゃなくても光に怪物としてスポットライトが当たったのが(当初は清水先生のひっかけにひっかかりましたが)違和感あります。

 

自分のことをそんなふうに理解しているので、忘れてるいっぽうで、震災について語るのは気が重いんですよ。自分が嘘くさく感じて。その意味で震災はさすがにちょっと近かったんです。

あの地震から半年後の911テロの10周年のときには、テレビ見て泣いてました。2機目の飛行機がビルに突っ込むのを生中継で見てたので、それからふたつのタワーが崩れ落ちるまでずっと見てたので、10年で癒された傷ともっとたくさんの癒やされなかった傷を見て、それでも生きていかなければならない人たちを見て、胸が痛みました。

震災はもっと身近な現象だったので、なにか言ったり書いたりすることが必ず近くの誰かを傷つけます。

それにたぶん、他の地域の方々には遠い話でしょうし。しみじみ語られても違和感あるだろうと。

とはいえ第二管区の住人としてこれを無視ばかりしてるのも逆に嘘くさいので、今年はちょっといくつかのエピソードを淡々とまとめてみます。

 

 

一年半ほど前に下書きしてアップできなかった写真があります。こんな田舎道を経由した出張の話でした。

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目的地は沿岸の被災地でした。

東北地方の太平洋側では、津波被害のあった場所を被災地と呼びます。当時まだ更地でした。

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復興の途上だったので交差点に名前がついていなくて、2時間かけて現地についてから30分も道に迷いました。

ネットがまだ認識していない自動車専用道路が開通してましたが、どう調べてもどのルートでどのインターで降りればいいのか、現地人の口コミ以外の情報がない。帰りは現地でそれを教えてもらったので1時間40分で帰ってこられました。

 

沿岸部では、当時まだ建設中だった海が見えないほどでっかい防波堤を眺めながら、これだけは何があっても同意できん、と思ってました。わたしの感情なんかどうでもいいんですけど、そこまでしてそこに住もうとする心情はいまでも理解できません。とはいえ自分は被災者じゃなくて、かつわりと近くでそれを見てきたので、そういう感情が生じることそのものが大変居心地悪いです。

 

 

それから地震のすぐ後の話なんですが。

知人が国の要請で駆り出され体育館に詰めて、身元不明の遺体を調べるために、いわゆる歯型を調べる作業をしていたそうです。

遺体の検分をする歯医者というのは、口腔外科医がわりと多いそうです。口腔外科医というのは、名乗ってるだけで何もできない人のほうがずっと多いのですが、本物で上級者になるとガンの手術とかもします。よって切開創とかのグロい光景も見慣れてるし、いわゆる医者の中でも外科医が細かい症例に気付きやすいのと同様、観察眼も普通の歯医者と違う。

で、全国から口腔外科医やそうでない歯医者が集まってきて、ご遺体の歯型をとったりしてたときのこと。流れ作業だったところにボールのようなものが入った袋が届き、開けてみたら赤ん坊の頭部が入っていたと。それを見た東京からのボランティアの口腔外科医が泣き崩れてしまい、それを見ていた自身も被災者である現地の外科医つまりわたしの知人が、「さっさとしゃきっとしてください、仕事続けましょう」と冷たく言い放ったそうです。

わたしがこの話を聞いたのは震災から6、7年経過した頃で、その知人が当時を振り返って「感情が麻痺してしまって怒りしかなかった」とやっと語れるようになった、そのときのことでした。

 

清水先生って、現実の事件や事故を思い起こさせるエピソードを、ひょろっと入れるじゃないですか。知ってる事例にぶちあたるとぎょっとするんですよね。別に悪いことじゃなくて、単に知ってるからぎょっとするだけなんですが。無印の地震の話ふたつとか。「ごえんごじゅっせん」もそうだったな。「悪戯」は子供の頭部が出てきましたし。清水先生はそういうのをわりと淡々と(←個人の感覚です)描かれるので、そこで逆についていけてます。

 

 

当時被災地の沿岸部にいた別の知り合いが、本人は停電以外の被害には合わなかったんですが、道路一本向こうの状況が悲惨すぎてキレてしまって、全財産を赤十字に寄付してしまいました。お金持ちだったので、寄付額は楽天の三木谷さん(彼にとってはポケットマネーだったでしょうが)より多かったそうです。

当時いちばん泣いたのが実はこの話でした。その人が見た光景を想像して、その衝撃を想像して。

 

わたし自身は地震の直後、停電してしまったので寒さを心配し、明るいうちにと思ってわんこと散歩に行きました。手回しラジオ(←うち、なんでもある)で津波情報とか聞いてたんですが、8メートルとか聞いても80センチくらいの想像してまして。数字が非日常すぎて解釈できなかった。

明かりが戻った三日後くらいにテレビで初めて沿岸部の光景を見て、N HKのアナウンサーが亡くなった方々の名前をひたすら読み上げていて、「◯◯ちゃん、1歳」で声を詰まらせてたのは覚えてます。

 

実家(人的被害なし、物的被害些少)のある仙台に数か月後に初めて帰ったんですが、なにもかもが流されてしまった空港のほうに出かけて、当時すでに発見される数が少なくなっていたご遺体を運ぶ自衛隊の方々に遭遇したことがありました。

もう遺体が見つかっただけで御の字、という状況だったので、テロのときも阪神大震災のときも現地はこんなだったんだろうな、と思ったものでした。

 

仕事もGW明けまで始まらなくてですね。沿岸部にボランティアに行ってた医師免許を持つ同僚が、今とてもこっちを見捨てて帰れない、と夏まで職場復帰しなくて。現地を見てない内陸の人間とは温度差がありました。

 

 

わたしは最愛の猫を2012年の年が明けてすぐ亡くしました。それから何年も立ち直れなかったけど、まだ復興のフの字もまともに始まってなかった沿岸部を横目に見て、猫を亡くして悲しいとは人に言えなかった。悲しむことが許されていない気がしてそれもつらかったし、人に会って元気そうだと思われるのも嫌で、落ち込んでどうしたのと聞かれるのも嫌で。ひたすら保護活動に奔走して、どうぶつの虐待の情報が以前より多く入ってくるようになり、それもつらかった。

四十にして不惑、なんて人生が楽になるのを楽しみにしてたけど、四十を過ぎてからのほうがつらいことはずっと多かったです。

 

今回のコロナ騒ぎ、あの頃の状況とちょっと似てるんですよ。身動きとれない、困ってるところにお金は降ってくるけど適切に配分されない、傷ついてる人が傷つきすぎて声もあげられない、けどどうでもいい人にとってはめっちゃどうでもいい。

 

 

とりとめなくまとまりなく綴りました。

今夜はバイトです。震災のことに一言触れるべきか、それで傷つく人がいるだろうから黙ってるべきか、まだ迷ってますけど、黙ってるつもりです。