世間は梅雨明けしたようですが、ここではもうちょっと雨の季節を続けます。疲れた恋人たち、第……何夜目? また新たな頻出パターンが
文中に出てくる『ルバイヤート』はこちら→SS「秘密の上に費やさむ」
相互に関連はありませんが、まとめて読むと読む方も疲れ 癒されるといい。
宇野猫と、青木ワンコ(仮)のリードをかじる岡部猫と、うちの黒猫。
「みんな おつかれー」
今回は薪さんが疲れてます。覚えのある甘え方をしてます。微妙にバカップルです。
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ねむり
青木がリビングに戻ると、風呂を洗って湯はりのスイッチを入れたそのわずかなあいだに、薪はソファから滑り落ちて床の上で寝ていた。右腕を枕がわりに上半身を抱え込むみたいに、わざわざ固い床の上に転がっている。
声をかけずに抱き上げようとしたところ、こういうときには寝惚けてイタリア語のオペラの歌詞なんかを暗唱しだすのがバリエーションのひとつなのに、青木には理解できないことを好きに喋らせながら寝かしつけるのが常なのに、珍しくはっきりと抵抗された。腕を突っ張って青木の胸を押しのけ、からだを起こした薪が目を閉じたまま、まだ寝ない、と言い張る。
「なにおっしゃってるんですか。フロアに落っこちたんですよ」
「すぐ目が覚めるように、わざと床で寝てたんだ」
「……なんですって?」
「もうソファ程度じゃ熟睡しちゃうから」
「そんなにお疲れなら寝てください」
「いやだ」
「こどもですか、なにを駄々こねてるんです」
「おまえがせっかく来たのに。まだ寝ない」
青木が詰まる。これこそが寝惚けでなくてなんだろう。
「でもそんな調子じゃ、映画見てたって本読んでたってチェスやってたって、途中で意識なくなりますよ」
「チェスなんかやったことないくせに」
「オセロでもいいですが」
「僕に勝てるわけないだろ」
薪が青木の肩に頭をもたせかけて、見えない表情でくすりと笑う。「おまえ、寝かしつけるのヘタだなあ」
「小学生ならすぐ寝るんですけどね」
舞を引き合いに出したことで、いい案が浮かんだ。「読み聞かせしてあげますよ」
「……『ルバイヤート』を?」
「勘弁してください」
「フィッツジェラルドの英訳もついてるぞ」
「読めたとして意味わかりますかね」
しかし薪にとっては魅力的な提案だったらしい。膝の下に腕を回しても抵抗しなくなったので、力の抜けた肩と一緒に抱き上げた。顎の下に来た柔らかい髪にやさしく長くキスをしたら、猫が甘えるかのごとく擦り寄せてくる。
「寝てたって一緒にいられますよ」
ベッドにおろそうとしても離してくれない。そのまま隣にもぐりこむと、梅雨の残りの肌寒さで冷えたつま先が、青木の脚のあいだに入って暖をとった。
「詩を読んでくれるんだろ」
しかも享楽的で厭世的な詩を、と青木は自分にないものにとまどいを覚える。
「準備しますから寝ながら待っててください」
そして寝息を立て始めた麗しい人が腕の中で心持ち丸まっているのを見て、いい眺めだな、と感動する。
金糸の髪は闇の中でこそ輝いてみえる。ダイヤモンドの瞳はまぶたの下でこそ濡れてみえる。真珠の肌は触れていないときこそ歓びを湛えてみえる。氷の仮面は眠っているあいだにこそ、微笑みを押し隠してやわらいでいる。
「たいした四行詩だな」
「聞こえてたんですか……」
「続けて」
「寝てください」
「寝てても続けてくれ」
黙ってフィッツジェラルドを読んだほうが簡単だったかも、と青木は思ったが、まだ微笑にもならない微笑が恋人の虹の頬の薔薇色をかすかに強めたのを見てとった。
これなら千一夜でも続けられる。無茶ばかり言うウマル・ハイヤームに、恋の素晴らしさを語るシェエラザード。でもお姫さまはどうみてもこの人のほうだ、となおもうっとり見つめる視線を咎めるように、心を読んだ薪の眉根がわずかに寄せられた。
「おまえ、不真面目なこと考えてる」
「寝てくださいよ。続けますから」
姿勢を楽にして、間近に来た薪の額にくちづけた。しなやかな獣が喉を鳴らすのに似た甘い吐息が首筋にかかる。ほそいからだを抱き寄せて、青木は眠らない美しいひとを讃える言葉を静かに編み続けた。
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