雑種のひみつの『秘密』

清水玲子先生の『秘密』について、思いの丈を吐露します。

「わがままな晩餐」

こんばんは。

今日はかなり涼しくて、っていうか寒いです北東北。暖房たいてます。

子猫室長さんズはホカペ入り放牧場で久しぶりに揃ってくっついてました。短い夏はまだまだ遠いです。

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左の三毛から時計周りに、小池猫、山本猫、岡部猫、今井猫、宇野猫。

こうやって揃うとどうしても曽我猫を思い出してしまいます。この5にんにはなんとしても幸せになってもらいます。

 

 

さて元気出して本日は、薪さんの秘密のごはん その2。

2046年4月30日、東大2年生の改元連休のはなしです。まだやってますほんとごめんなさい。

バークレーにて、風呂で薪さんが倒れた日(20190511「不規則な真実」)の、その夜のごはんのおはなしです。昨日書いたムースが出てきます。夢から続けて飽きもせず妄想しました。今回もシュミに偏ることこのうえないのでこちらで公開。

青木を贔屓してるとか書いたばかりなのに、鈴木さんのますますのスパダリ化に歯止めがかからないどうしよう。

 

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わがままな晩餐

 

 鈴木の使っている客用寝室に資料がぶちまけてあるので、からだが温まって正気に戻り各種手続きが済むと、特別講義のために呼ばれた講師はそのままベッドの上で文献を読み始めた。しばらくして鈴木はミモレットシャルドネを脚付きのトレーに載せて持っていってやった。

 「シティクラブ・ホテルのシェフが来た」

 「うん」

 「今夜から明後日の朝食までのプランを立ててもらった。あと1時間くらいで夕食にするから」

 「わかった」

 黙って大きなベッドの上に一緒に座り、いくつかの資料を並行して処理していく友人の手さばきを眺める。可視化された数式が脳の奥でグラフに線を引くのが見えるようだった。薪が落ち着いたことで、鈴木は自分も相当空腹であることを認識する。行儀悪くベッドの上に載せたトレーに手を伸ばし、相伴としてグラスをひとつとる。白ワインは冷えていて、12か月熟成のハードチーズのナッツ臭とよく合った。フルーティーな香りが舌の上に広がり、のどの奥でそれが葡萄の芳醇さと絡み合う。一向に食べ物に意識を向けない口に、オレンジ色の表面の不規則な波紋のカット面から折って、人参の薄切りみたいな見た目のチーズを入れてやる。鈴木をほとんど無視していた薪は、唇に触れた固くほろほろした感触に手を止めた。乖離された味覚に気づいてそれをゆっくりと感じるように、小さな歯と舌が動いた。口腔を刺激するものがあれば、喉は潤いを欲しがる。グラスに集中しない指を戒めとして弾いて、ナパの白を掴ませてやった。

 途切れ途切れにそんなことを小一時間繰り返し、鈴木は合間に指示を受けて、バークレーと京都の院生に時間を無視した電話をかけて大量のファイルを電送した。ハーフボトルがあく頃、天才をいい加減にしろと軽く叱って、丸2日間専属となったシェフの待つダイニングへ連れて下りて行った。

 「赤ピーマンのムースだ」

 階下のテーブルの前に立つと、薪はちょっとした驚きをもって目の前の一品を眺めた。「「コートドール」の?」

 「斉須さんと同じ時期にパリの「ランブロワジー」で修行させていただいてたんです」

 シェフがキッチンから日本語で答えた。「わたしは当時ほんの下っ端で、野菜を洗っていただけですけど。斉須さんが帰国なさったときにはムッシュ・パコが大変残念がって、日本人は真面目で手先が器用でよく働くから、とわたしまで引き立ててくださいました」

 そこで看板メニューをいくつか伝授してもらったのだという。「召し上がったことがおありでしたか」

 「うん。2回」

 「そうなのか」

 薪にそもそもお気に入りの一皿があること自体に驚く。偏食大王の態度が変わり、テーブルの鈴木の向かい側の席について背筋を伸ばした。

 「一昨年、日本脳科学会の大会が慶応であってさ。斉須さんの「コートドール」は三田にあるから、大学から歩いて行けるんで、連れてってもらった」

 「誰に」

 「女子医科大かどっかの、若い准教授だったと思う」

 「共同研究か何かやったのか」

 「隣の席に座った初対面のおっさんだよ。帰りにケツなでられたんで名前は忘れた」

 「それで料理を覚えてるならよっぽど食事がよかったんだな」

 鈴木がグラスにワインを注ぎ、なにかぶすっとした表情を見せた。

 「なんだよ」

 「どっかでそんな目にあってるだろうとは思ってたけど。食い物につられるなんて小学生か」

 「こどもが入れるレストランじゃ、ない」

 「こどもじゃないから襲われたんだろ。色目を使ってくる相手も見分けられないのか」

 「利き手の指2本折ってやったから」

 それで鈴木はやっと態度を軟化させた。もう1回が誰とだったのかは、せっかくの食事を前にしていま聞くのはよすことにした。学会でのセクハラの被害者は今夜2本目のシャルドネを口に含んで鼻で呼吸し、満足そうに目を閉じる。

 ふたりの前には同じ前菜があった。真っ白い丸い皿の中心に赤いピューレがあり、その質感と輪郭の淵から滲み出る透き通った液体を見ればトマトベースだとわかる。そのさらに中心に、先の尖った卵型に造形された、朱色がかかったオレンジ色のムースが載っていた。表面は思わず触れてみたくなるなめらかさが流線型を描いている。

 「フレンチだよな?」

 ふたりの口から出たふたつのレストランの名前を反芻して、鈴木が尋ねる。

 「斉須さんはヌーベル・キュイジーヌの嵐が去ったあと、食材に真正面から取り組んでその旬の真ん中を引き出す料理を作り続けた人なんだ」

 薪のスプーンがムースの尖った一端を切り離し、ピューレをわずかに絡めて小さな口へと運ぶ。口腔内いっぱいにひろがるパプリカの香りは、舌と口蓋のあいだで溶けてかたちを失い、丁寧な裏ごしのおかげでなにも残さずにフレーバーだけを広げていく。トマトはかなりしっかりしたものを使っていて、調味料はぎりぎりまで抑えている。旬の食材としてはどちらもわずかに季節が早かったが、そのぶん鋭敏な味付けにプロの腕が生かされていた。

 「いかにもな飾り付けとか、あの線と点で描くソースの絵とか、細かな材料を重ねた上にほんの少しのキャビアやハーブの香りを載せるとか。そういうのを全然しない匠だから、外観がシンプル過ぎて若い女の子とのデートには向かないぞ」

 薪は鈴木の将来の、ありもしないデートの計画を挫くようなことを言った。

 内実はけして見た目と同じくシンプルではなかった。なにしろ皿と合わせても3つしか色がない。だが凝ったフランス料理などまだ食べたことのなかった鈴木には、削ぎ落としたように見えて計算されつくしたスペシャリテがかえってすっとなじみ、嘘みたいに素直に、すごくおいしい、と思ってそれを実際に言葉にした。

 「生クリームを少なめにしましたか」

 キッチンの奥に向けて薪が問う。

 「おわかりですか。巨匠のレシピをいじるのは冒涜かとも思ったんですが」

 「いや。それは日本でも楽しめるけど、これは今日僕が食べたかった味です」

 特別な一皿が人を蘇らせる。ひとすくいごとにゆっくりと自分のなかでとろかして、食材が解体される時間やそれを施した料理人の手さばきを、からだにじっくり取り込んでいく。敬意を払った態度はひどく丁寧で、鈴木は乱暴者の友人のこんな姿を初めて見た。

 「おまえ昼間はゆですぎたほうれん草みたいにしなってたくせに。食いもんで元気になるなんて」

 「パリの三つ星伝来の芸術を「食いもん」呼ばわりするな」

 薪は満足そうな微笑みを浮かべて表情から疲れを取り払い、艶を取り戻した唇で次のひとくちをスプーンの先から舌の上に移した。自分のために用意された夕餉をからだの奥深くで楽しんでいることを、どこかの准教授に狼藉を働かせた溜息が語る。

 「鈴木。ありがとう」

 「……なにが」

 「おまえが頼んでくれたんだろ。胃が疲れてるから軽くして、春夏の野菜を出してくれとかなんとか」

 鈴木のカトラリーが空中で止まった。

 「聞こえたのか」

 「いや。おまえのやりそうなことは想像がつく。それに「ランブロワジー」で本物を習った人がレシピをわずかでも変えるなんて、自分の意志では絶対にやらないことだから」

 薪の手つきは優雅で、食事の時間を流れていく音楽を指揮するような食べ方をした。こいつにまともに何かを摂らせたいと思ったら、学食じゃだめだったのか、と鈴木は面倒な盟友の今後の取り扱いをどうすべきか、考え直す必要性に迫られつつあった。

 そういえばラーメンやトンカツなんか食べているところを見たことがない。キーワードはたぶん、「繊細さ」だ。子供を作る気などないと言った1年前の厭世観はだいぶ影を潜めたけれど、薪にとって食べることは生存本能の最底辺にある、その程度のものだった。ついさっき、濡れて冷えたからだをタオルで包んだのも、それをベッドまで運んだのも、女の子を扱うより軽々として容易で、それが鈴木を不安にさせた。こいつは無意識に生きることを拒否してるんじゃないか、という払拭できない疑惑が影となって鈴木の心に忍び込み、守らなければならない存在としての親友を照らす弱々しい光が、対抗して奥底で輝る。だが突破口が見つかれば攻め方も決まる。俺はもしかしてこいつのために料理まで覚えないといけないのかもしれない、と鈴木はアミューズのまろやかで奥深い、安定した旋律を奏で続ける味わいに、対抗心が湧き上がるのを感じた。

 「このあとは何がありますか」

 そんな視線を受け流して、薪は憎らしいほど純粋に食事を楽しんでいる。

 「アスパラガスはお好きなだけお出しできます。ラタトゥイユとブイヤベースは昼に仕込んだものを持参したので、明日のランチぐらいまでがいちばんよろしいかと。今夜のメインはシャラン鴨か、魚はエイをお選びいただけます」

 「じゃあアスパラガスを5本ずつ、あと鴨をフルーツのソースでお願いします」

 「オレンジでよろしいですか」

 「はい」

 すべて選び終えたあとで鈴木を見て、いいだろ、と確認する。

 全部自分で決めるくせに、俺に聞くどころか伝えることまでしょっちゅう忘れるくせに、それでいいよな、と平気な顔で言質だけは取る。二言目には、だっておまえがそう言った、ずっと一緒にいられるって言った、と落款を押して承認をとる。自分勝手で思い込みが強くて、育ててくれた相手を親だと信じて疑わない子猫のように、黙ってどこまでもついてくる。たまに自分が道端で見つけたものに夢中になれば、一緒に立ち止まって待ってることを疑いもしない。

 こいつこの先本当に、俺以外の友達なんてできないんじゃないかな、と鈴木は疑った。育て方を間違えたかもしれない。俺が結婚したり、海外赴任したり、先に死んだりしたら、どうするんだろう。

 とはいえ今夜のテーブルは実際期待できそうだ。ここはもちろん、おまえの選択で構わないと答える以外に答弁の可能性はない。薪が気に入ったらしいシェフがこの家にいるあいだに、ムースと鴨のレシピをくれないか頼んでみるか、と鈴木はさらりと本気で考えていた。

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おいしいもの食べたい。