キスの日。
妄想だけはいろいろしてみたんですが、いやコレ絶対どこかで誰か書いてるよ、って感じの超ベタベタなお題ばっかり浮かんできてしまいまして。だから書きたくないわけじゃないけど(個人的には同じお題でいろんな方々が書いてるのを読むのは大好物です)、いまいち調子が出なかった。やっぱカロリーメイト生活だと脳みその栄養が足りないか。
で、キスの話じゃない気がします、がちょっと頑張ってこじつけてみました。
20190329 S S「クローバー」 - 雑種のひみつの『秘密』 の、薪さんサイドからのおはなし。
この「風呂で寝落ちする薪さん」だけでなく、「外国語で寝ぼける薪さん」も、もう何回書いてるのか…… まだあげてないやつでも何度もやってる でもいいよね彼の趣味だし! と開き直ります。
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クローバー(B面)
青木の用意したぬるい風呂に、ふたりで静かに黙って浸かっている。心臓が送り出す血液が薪を動かすエネルギーを動脈に乗せてすべて吸い取り、からだじゅうの表面から放出してしまった脱力感がある。
今日はいつもとちょっと違った。具体的になにがどうというわけではなかったけれど、まだうまくからだが動かないうちに視覚を閉じて反芻していると、つい10分前のことが外国語で書かれた古い童話のようにぼやけて感じられる。うまく言葉で捉えられず、うまく記憶に残しておけず、新緑が作り出す木漏れ日と同じあいまいな印象で、でもひどく素晴らしかったことだけはなぜか思い出せる。自分をこんな海馬をさまよう不自由な存在にしてしまった相手を、浴槽に載せた左の腕越しに薄眼を開けて盗み見る。近景を形作る肩の稜線に、小さなキスの痕が並んでクローバーみたいに咲いていた。
青木の悪い癖は治らないが、目立たない場所を考えるようになった。ということは計算してやっているのか、と少し憎らしい。だが薪に青木を叱る資格はない。第一に、つけられているそのときには全身で彼を感じるのに夢中で、まるで気づいていない。第二に、もうつけてほしくないと思っていなかった。
今日はまずい、寝落ちしそうだ、と意識の岸辺で警戒する隙もなく、腕が落ちて水音がした。クローバーが泡の中をゆっくりと回転しながら沈んでいく。いま寝てましたよ、と抱きとめられて、寝てない、と反抗した。
『気分よくひたってたのに。おまえなんでそんなに素面なんだ』
「あがりましょう」
青木の言葉が知らない国の言語に聞こえて、自分がラテン語で喋っていたことに気づいた。
「動きたくない」
「俺が運びますから」
『まだもう少し。余韻を感じていたい』
ロシア語を試してみる。
「わかってます」
『嘘つけ。あの感じがおまえにわかるわけないだろ。もう少し……続けたかった』
「いいですよ」
広東語。こいつも相当いい加減だな、僕が寝ぼけてると油断して、と薪はだんだん大胆になる。
『すごくよかった。今夜も。いつもより』
「それもわかってます」
「キスして……*いしてる」
「それは」
青木の口調が変わった。「それは、知りませんでした」
薪はもう一度薄眼を開けた。自分を抱く厚い胸から視線を少しずつあげ、汗できらきらと光る翼竜の翼をかたどった鎖骨と首筋を通り過ぎ、見下ろす顎の美しい輪郭にたどり着く。薪の全身のどんな細胞のひとつにも触れたことのある唇が、魔法を解かれてわずかにほどけて、嬉しいです、と小さな声を紡ぎ出した。
言葉が思いを集めて形になって、湯気の中を泳いでいった。さらに視線を上げてブラックスピネルの漆黒の、潤んだ瞳の中心にいる自分の白い肌を見る。それが急速に上気していくのが、監視カメラに捉えられるようにはっきりと映っていた。
「嘘だろ」
「何がですか」
「嬉しいって、何が」
広東語の次はスウェーデン語だった。その次は、何だった?
「なんでもないです。ただあなたの声がやさしかったので。それだけで」
そして青木は何も聞かなかった不在証明の反証として、薪の前髪をかきあげて額についばむように音を立ててキスをした。薪の全身の細胞が知っている、傷つきやすい蕾をいたわって咲かせる、恋人を歓びで満たして開かせる、音楽を奏でて紡ぎ出すあのキスをした。
薪は黙ってまた目を伏せた。今夜はおとなしく運ばれてやるしかなかった。
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