こんばんは。
今回の出張、行き先が革命 動乱のさなかの香港だったのですが、着いた翌日に空港が閉鎖され、その解除の翌日飛んだ飛行機で当初の予定どおりに帰ってきて、帰国した翌日には外務省が香港全土を「危険レベル1」に指定するという、間隙を縫ったようなスケジュールになりました。
わたしは同行者が天才で(←環境に天才がいる幸福)中国語もできる人だったので、帰国できないかもとかいう心配は丸投げで、せっせと仕事に励んでおったのですが、親戚には「デモに参加しに行ったの?」とか真顔で聞かれましたね。もうそんなトシじゃねーよ……。 トシの問題??
猫ブログを更新する暇もなかった出張期間中でしたが、この件に関して相も変わらず妄想はしてました。
夏の鈴薪のシメにしました。半分はドキュメンタリーです。2056年、「第九」発足直後、まだ雪子さんは登場していない時期(希望)。例によって仕事の話しかしてないふたりです。
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香港国際機場閉鎖
「鈴木!」
コンラッドの出張で泊まるには豪華なツインルームで、シャワーブースのガラスの扉を薪が勢いよく開けた。呼ばれた副室長は頭のてっぺんからいわばつまさきまで泡だらけで、残る仕事は帰国だけ、という気軽さから、鼻歌まで出てきそうな状態だったのだが。
「呼んでるのが聞こえないのか」
「……聞こえたら返事してる」
かろうじて髪をかきあげ後ろになでつけて、目の周りの石鹸をはらう。「どうした」
「空港が閉鎖された」
「え」
「帰れないぞ」
突き出されたiPadの画面は、中国語だった。
「読めねーよ」
「香港機場聚集示威者千人反送中――」
「わかった。せめて流させてくれ。ドア閉めろ」
薪は一歩下がると扉を完全に開けて鈴木を睨みつけ、腕を組んで仁王立ちになった。
「俺に当たるな」
「さっさとすませろ」
「シャワーもゆっくり浴びさせてくれないのかね」
言いながらも鈴木はコックをひねって湯をかぶり、性急に差し出されたバスローブを受け取った。体を拭く時間も与えないつもりらしい。頭からタオルをはおってほぼ濡れたまま浴室を出ると、ふたつあるクイーンサイズのベッドのひとつにふたりでのぼって、枕を背中に並んで座った。薪がテレビの画面を凝視し、鈴木はMacBookでニュースを検索したが、日本語ではまだ報道されていなかった。
「たった今の発表だから」
「香港政府はなんて言ってるんだ」
「本日4時からすべての飛行機の離発着を停止し空港を閉鎖する、って」
薪のiPadをいじって、フライト・トラッカーを起動させる。これは実際の飛行機の信号を拾って、便名をはじめ現在地の緯度経度高度やスピード、経路などを表示する、完全にマニア向けのアプリだった。香港国際空港周辺も旅客機のアイコンだらけで、いままさに着陸する機が縦列で並んで降りてきている。
「飛んでるぞ」
「そりゃ閉鎖宣言以前に離陸したやつは受け入れざるを得ないよ」
「じゃあ実質、今後の近距離便に限られるってことか」
「僕たちにはそれが問題なんだろうが」
「落ち着けってば」
鈴木はなおもNHKのニュースページを繰って、大陸への犯罪者引き渡し法案に反対するデモ隊の、直近の情報を追った。
「だからツートップまとめて出張なんてダメだって言ったんだ」
「ジタバタしても仕方ないって」
「おまえずいぶん余裕だな」
「飛ばないものは仕方ない。それに香港みたいに資源がなくて人口の多い地域で、貨物便も含めて流通を止めるなんて、せいぜい一日、どんなに頑張っても一日半だ。飛行機が来なけりゃデモ隊も空港にいる意味はないし、彼らが撤収すれば空港もまた通常営業に戻る」
こんな単純な理屈に天才の親友が辿り着かないとは思えない。「おまえこそなにをそんなにイライラしてるんだ。いい機会だから休め。4月の「第九」立ち上げから休暇なんか取ってないだろ」
「新部署なんだぞ。そんなヒマあるか」
「おまえがそんなんじゃ下だって働きづめだ」
鈴木は巨大なベッドの上に寝転がると、手足を大げさに広げて大の字になった。「こんな立派なホテルに、堂々と公費で、もう一日泊まれるんだぞ。民主主義を守るために闘う若者たちが、彼らを守るために闘う俺たち警察にくれた、夏休みだよ」
薪がやっとトーンダウンし始めたのが、空気の流れでわかった。
「いつでも帰れる準備だけはしておけよ」
「もうしてある」
当初予定は明日の朝の第一便だった。「だから飲みに行こうぜ。これから」
「「Q88」に行きたいんだな」
隣のJWマリオットのグランドフロアにあるバーは、マライア・キャリー似の歌手がリクエストに応えてくれるだけでなく、ちょっとびっくりするような銘柄のワインまでグラスでサーブされる。初日に香港警察の副処長に連れて行ってもらってから、薪も気に入っていた。
「あそこで軽く引っ掛けて、それからなにかいいもの食いに行こう」
「わかった。僕も汗を流してくる」
薪はベッドから下りて、歩きながらシャツのボタンをはずして言った。「おまえは田城さんと、豊村と上野にメッセ投げとけ」
大陸政府が学生を中心としたデモに屈して法案を取り下げないのは、メンツと、さらに重要な問題として、抗議活動が内陸に飛び火した場合を恐れているからだった。科警研の新室長が隣国の治安を守る者として現状を静観できない理由もそこにあった。だが鈴木の言い分にも一理ある。空港の閉鎖が長くなる根拠はないし、万が一のことがあったとしても、マカオに出て台北経由で帰国すればすむ話だ。そのプランBの各フライトは実は検索済みだった。それに、室長の自分がこの調子では下も休暇をとれない、そこには意識が回らなかった。ふたりで「旅行」に出たのなんて、いつ以来だろう。
「台風もチェックするよ」
「僕のそれにアメリカ海軍のホームページがブックマークしてあるから」
「――なんで米軍?」
「台風とかハリケーンとかの進路予測は、あいつらのがいちばん当たるんだ」
鈴木が何か言ったが無視した。浴室に入る前に見たiPhoneには、情報が入り始めたらしい各方面から、いらぬ心配をするメールやメッセージが続々入っていた。薪はそのいずれにも「邪魔するな」とだけ返信すると、決めたからには全力で休もうとばかりに、熱いシャワーに頭から突っ込んだ。
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なおフライト・トラッカーの実際の画面はこんな感じ。
1個1個の飛行機をクリックすると、その飛行機の情報や経路が個別で表示されます。飛行機オタクの垂涎アプリです。